やまなしの情報や看板犬の日常を南総里見八犬伝ならぬ南都留富士見4犬伝でリポートします。


by someday3601
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<   2016年 01月 ( 9 )   > この月の画像一覧

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友人の杉山さん。上芦川の茅葺の古民家カフェ農啓庵のオーナーから苺を送って頂きました。オーナーの親戚の農園から直です。静岡の苺には特別な思いがあります。今から30年以上前に近鉄とはとバスの添乗員を掛け持ちしてました。たしかはとバスだったか・・・・よく日帰りのバスツアーで久能山の東照宮と石垣イチゴ、天女の羽衣で有名な千本松原?と焼津の魚センター買い物ツアーでした。浜松町を朝8時ごろ出発して夜7時に東京駅八重洲口で旅の完結でした。大学時代のアルバイトの一つでした。いろんな失敗や困難を経て・・・・何をしても楽しかったなあ。当たり前のように家族に守られていたんだなあ。苺を食べるときにとりわけ静岡の苺には甘くてスッパイおもひでが・・・・来月は杉山オーナーに静岡苺狩り御誘い頂いたので・・・・・やはりいってみるかなあ・・・


 
by someday3601 | 2016-01-30 16:47 | ゲゲゲの親父

ATARI

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ステッカーです。こういう小さなものから運を引き込みます。
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毎度ドッグフードです。
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スーパーセルバの1000円分のPB商品GET
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スーパーオギノの1万円商品券GET

               今年も宜しくお願い致します。

by someday3601 | 2016-01-30 16:29 | Prize life(懸賞生活)
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河口湖の大石公園を過ぎたところにヤマザキのコンビニがあります。道の拡幅工事に合わせてガソリンスタンドと旅館を閉めて新たにコンビニを向かいに移転し、貸しコテージを3棟建設中です。以前大石地区の観光協会長などされていた町の名士の方の家です。先般ピアノを頂きましたがその時に臼も頂きました。

杵臼之交(しょきゅうのまじわり)
身分をこだわらずに人付き合いをすること。「杵臼」はきねとうすのこと。
中国の後漢の時代の公孫穆は、学費を稼ぐために呉祐の家で雇われて、きねとうすを使って米をついていた。
あるとき呉祐が公孫穆に話しかけてみると、高い学識があることに驚き、その後は主従を越えた付き合いを結んだという故事から。

まさに自分のようなよそ者相手に・・・・といったところでしょうか。それで御正月に向けて昨年末に餅月をしようとしましたが臼にひびがはいっており・・・・断念しました。というのは餅月をされた方ならおわかりでしょうが水やお湯を張ったりしますし・・・ついたもち米が隙間に入り込んでしまう為です。ですから杵をホームセンターに買いに行こうとしましたが・・・・諦めました。おそらく樹齢100年くらいのケヤキなのでテーブルとか椅子にでもしようかと考えています。
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そんなときに超常連さんのTOKYOのイタグレのグリニトさんから毎度毎度の搗きたての御餅を送って頂きました。ありがたいありがたい。御蔭さまで御雑煮やあべかわ・御汁粉などして御正月気分を味わうことが出来ました。お客様をお迎えする我々がこのようにお客さまに良くしてもらっては・・・・・ある意味杵臼之交でしょうか。
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そして吾朗丸からは豆餅を頂き、先般はアイリスオーヤマのこだわり御餅があたり贈られてきました。

 杵臼之交(しょきゅうのまじわり)いい言葉です。自分は漢詩も好きでしたし、三国志も好きです。

最期にもうひとつ
臼って書き順分かりますか?この年になるまで分かっていませんでした。ヒントは六角です。

by someday3601 | 2016-01-29 18:18 | ゲゲゲの親父
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河口湖浅間神社の鳥居
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隋神門
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本殿にて記念写真。この本殿脇から裏手にかけて天然記念物の7本杉があります。いずれも樹齢1200年を超えます。最大のものは根周りが35メートルだそうです。もうそれだけで御神体ですよね。
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こうした神社仏閣には鎮守の森がある。あるというよりそういうパワースポットに寺社が建立されたというのがあたりだろう、明治神宮以外は。
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こういった鎮守の森には例外なく樹齢の長い巨木が点在する。栃の木だったり、籾の木だったり・・・・
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そしてそれらは同じく天然記念物の鷹や梟の住みかであったりします。
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われわれの寿命など足元にも及ばない御神木の荘厳さ。そこに立つだけでパワーがいただけるでしょうか。
こちらの神主によるとあさ6時から座禅を行っているそうで、その後お茶と御菓子が振舞われるそうです。とりわけ外国人に人気だそうです。
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さて今回は初詣となりました。目的は義父の体の具合が悪いので参拝とお守りを頂きに行きました。義母と最近車を運転するようになった妻の健康と交通安全と自分にもお守りを・・・・もちろん皆様にとりましても良き一年となりますように祈念させて頂きました。

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締めはやはり富士山バックにハイポーズ!!

by someday3601 | 2016-01-28 17:37 | 山梨の観光物産

書き初め

仁儀礼智忠信孝悌



書き初め(かきぞめ)という言葉は知っていても漢字で初め(ぞめ)は初めて知りました。こうしてPCやスマホばかりだとなおさらですね。

そもそも書き初めとは古来から続いてきたお正月の伝統行事で、もともとは宮中の一部の文人の行事から始まっていたと言われていて、正月の二日に墨と筆という日本古来の筆記用具を使い新年の目標や座右の銘を書くというものでした。後に明治時代頃になると学校教育で習字が必修科目となったため、書き初めが盛んになっていったと言われています。そして、正月の二日は仕事始めとされており、その昔の農家や商家ではこの日から仕事を始めていたんだそう。この習慣にならい新しい年の始まりに字を書いたり絵を書いたりする書き初めが広まっていきました。

一年の仕事始めとしてその年の抱負や目標などを書き、うまくいくことを願うという意味で行われています。



調べてみました。
書き初めとは、年が明けて初めて毛筆で書や絵をかく行事。通常は1月2日に行われる。元は旧暦の1月2日に行われた。吉書(きっしょ)、試筆(しひつ)、初硯(はつすずり)、筆始(ふではじめ)などともいう。
若水で墨を摺り、恵方に向かって詩歌を書く習慣があった。書く詩歌は「長生殿裏春秋富、不老門前日月遅」という漢詩がよく用いられた。もともとは宮中で行われていた儀式だったが、江戸時代以降庶民にも広まった。
書き初めで書いたものは左義長(先のドン度焼き)で燃やし、その炎が高く上がると字が上達すると言われているる。毎年1月5日には東京都千代田区にある日本武道館で公益財団法人日本武道館が主催する書道事業の行事として全日本書初め大会が約4,000人を集めて催され、全国的に各種メディアで放映される。これは新年の風物詩の一つとなっている。

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写真は田村心宰氏はサムデイファミリーの八王子のゴールデンR田村アルボ君のオーナーの御兄弟です。
1月20~24日まで、東京・銀座洋協ホール(ギャラリーセンタービル6階)。幕田魁心をはじめ約60人。第3回田村心宰展を併催。
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自分にはよくわかりませんがこの写真の字が好きです。なんて書いてあるんだろう。


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海(うみ)
 磨った墨を溜めておくところ。他に、墨池(ぼくち)、硯沼(げんしょう)、
 水池(すいち)と呼ばれることもあります。

丘(おか)
墨を磨るところ。墨堂(ぼくどう)、墨道(ぼくどう)、陸(りく)と呼ばれることもあります。

縁(ふち)
硯の周囲の盛り上がったところ。この縁の部分に彫りが刻まれたものもあります。

硯側(けんそく)
硯の側面。彫刻や文様がなされたものもあります。

硯面(けんめん)
硯の表面全体のこと。硯表(けんぴょう)と呼ばれることもあります。

硯陰(けんいん)
硯の裏面全体のこと。硯背(けんぱい)と呼ばれることもあります。
  
   自分は何も知らずに書初めしていたんだなあ。字が下手で習字は嫌いでしたが、墨の匂いは好きだったなあ。



ちなみに日本の硯の材料産地は、山口県宇部市の赤間石、宮城県石巻市の雄勝石、三重県熊野市の那智黒石、山梨県早川町雨畑の玄晶石(粘板岩)等である。その中でも赤間石との雄勝石の二つは百年以上の歴史があり、国の伝統工芸品指定を受けている。しかし雄勝石は2011年3月の東日本大震災で石巻市の旧雄勝町地域が大きな損害を受け生産が停止したため、入手は困難になった。

雨畑硯(あまはたすずり)は山梨県南巨摩郡で製造されている硯である。雨畑硯の起源は2つあり、永仁5年(1297年)に日蓮の弟子である日朗が七面山を開く際早川支流の雨畑川で蒼黒色の石を発見し、この石で良質の硯が作れると伝えたのが始まりとされている説と、元禄3年(1690年)に雨宮孫右衛門が身延山へ参拝した際に早川で黒色の石を発見し、これを硯にして天明4年(1784年)に将軍徳川家治公へ献上したという説がある。双方の説には発見した石が「玄晶石」と言われる粘板岩であることが共通している。しかし時代と共に硯の文化は衰退していき、現在雨畑地区で製造されている工房は「硯匠庵」1件のみとなっており、職人も1人のみと後継者不足に悩まされている。一方で富士川町の旧鰍沢町域でも同じ岩石・製法で雨畑硯が作られており、こちらでは加工業組合も結成されているほか、数件の工房と数人の職人がいる。
by someday3601 | 2016-01-24 15:54 | 歳時記

今年もおおきに

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TOSHIBAのレグザ・・・ブルーレイーのレコーダー1万5千円相当

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アサヒスーパードライ6缶
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ドッグフード
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2000円クオカード
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北海道スープカレーセット
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オリエンタルカレーで当たりました。
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犬のお散歩バックです。
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レシピ本が当たりました。
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切り餅~~~あもちっちモッチもちもち!!

今年も幸先いいですが何事も控えめに欲張らずに・・・おすそわけの精神で。

by someday3601 | 2016-01-22 00:54 | Prize life(懸賞生活)

道祖神とどんど焼き

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文献より

道祖神(どうそじん)
 道祖神は日本の民間信仰の1つである。聚落の辻(道路の分かれ道)や集落の境などに石碑、丸石、男女和合の神像などの石造物が祭られて、サヘノカミまたは道ろく神などとも呼ばれてきた。旅行安全、防災、縁結び、子供の神さまとして民間信仰の対象となっている。一般的には、道祖神は、道行く人をわざわいから守り、その地域の村人やこどもたちを守り、悪疫悪霊に立ち向かい、愛をはぐくむ神様として祀られている。古老の教えでは、道行く人は、道祖神にさしかかったときは、必ず礼拝するか、会釈をして通り過ぎなければいけないとされた。
 「日本書紀」では、サヘノカミをフナド(岐)と現して、外界から押し寄せてくる疫病の魔障を防ぐものと書いている。また道祖神の石碑には台石や表石に天鈿女命(あまのうずめのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)と記して祀っているところもある。猿田彦命は体が大きく、鼻が高く、口尻の赤い神。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)降臨のとき、天鈿女命とともに高千穂峰へ案内した。神々の旅の先導を務めた故事から、中世以降、道祖神、庚申と習合し、道案内の神・旅の守護神ともなった。
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道祖神は全国的に小正月に祭られ、ドンド焼きが行われる。ドンド焼きの火であぶった焼きだんごを食べれば、風邪や歯痛を病まぬとされ、焼いた灰を用いれば農作物の悪虫害の防ぐなどとされ、多様な信仰に発展している。
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文献より
どんど焼き(どんどやき)
 1月14,15日の小正月の道祖神祭行事をいう。中世の宮中行事左義長が起源と云われる。地域の各戸から、正月の門松、ササ竹、しめ飾りなどを集め、14日夜、道祖神場で燃す。その燃える火を形容してどんど焼き、どんどん焼きとも地方的に呼び方がある。<>  火は古代から神聖視され、その威力に神力を信じてきたので、今でもどんど焼きの火で、上新粉(米の粉)で作った団子を焼いて食べるとかぜをひかないと言われる。またこの火のあおりで、子供たちは書きぞめの紙を空へ上げるが、高く上がれば書道の手が上がる-というならわしが各地で続けられている。そして燃え残った灰を持ち帰り家の周りにまくと、一年家内安全になると言われている。
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繭玉だんごと養蚕

 どんど焼きで食の楽しみといえば、繭玉団子を焼いて食べることである。地域によっては、これに甘酒などがふるまわれる。なぜ、団子なのか、最近ではあまり深く考える人もないようである。
 繭玉団子は、上新粉(米粉)をこねて、蚕の白い繭の形にまるめた、蒸した団子である(あるいは真ん丸のもある)。昔は14日昼には作り出し、桑の枝、柿の枝などにさして、神棚や大黒柱に飾っておく。篤農家ほどこの繭玉飾り(だんごばな)は大きく作り、夜のどんど焼きには、こどもたちに持たせて、送り出したのである。
 どんど焼きの火勢が弱まると、団子を焼く段取りとなる。「これをくえば、この1年を健康で過ごせるぞ」とか「むしばにならないぞ」といって、繭玉団子をオコヤの熾き火で焼いて食べる。山梨市下井尻地区の現在のやり方では、細い竹の先に針金をくくりつけ、この針金に団子を刺して、熾き火の上であぶる。魚釣りをしているようにも見える。
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繭玉団子には、地域の生業であった養蚕の繁盛を祈る心も込められている。
 その背景として、山梨の道祖神場では、「蚕影山」と刻まれた養蚕神を祀るところが多いことがあげられる。山梨では、古来農民の現金収入を支えたものが養蚕であった。養蚕は蚕を飼い、生糸を産出する。昭和40年代までの山梨の農家の暮らしは、春の麦の収穫、田植えが終わると、夏蚕が始まり、初秋蚕、晩秋蚕と三度の養蚕をこなし、そして稲刈り、麦の播種が終わって、農閑期となる。その中で、なんと云っても現金収入の柱は養蚕だった。(11月に開く甲府最大のお祭り「えびす講祭り」は、そうした、懐に金がたまった農民たちが、家族連れで買い物、食事を楽しむハレの場であった。)

ことに、甲府盆地東部の峡東地方の農家は、江戸時代中期以降こぞって養蚕を生業としたものである。峡東地方の民家の特色である「切り妻出窓屋根様式は、自宅を養蚕のために最適化した例である。峡東の農家は、他の地域に比べ、一様に大きな家を構え、養蚕の現金収入の実入りの大きさを物語っている。このため、その年の養蚕の成果が農家の暮らしに与える影響も大きく、地域の繁栄を守ってくれる道祖神に養蚕の神様である蚕影山を併祀したのも当然といえよう。

 この山梨の養蚕は、明治期には製糸業とともに、山梨の経済発展の原動力となった。明治初期、山梨の生糸を天秤棒でかついで、笹子、小仏峠を踏破し、横浜港での貿易で巨利を得た山梨県人たちは、東京に進出して、電力、鉄道等基幹産業を牛耳り、「甲州財閥」と呼ばれたこともある。このことは、地域の記憶として永遠に語り継がれるべきものである。
 山梨における養蚕業は、昭和50年代急激に衰退し、山梨県養蚕連合会の解散とともに、数百年に及ぶ山梨での産業史の幕を閉じてしまった。年にたった一度、道祖神祭のときだけ各戸で作られる繭玉団子。たかが繭玉団子であるが、今やわれわれの地域から喪われた養蚕の歴史を思い出させてくれる唯一の貴重な証しとなってしまった。

道草

因みに明治における日本の主な輸出品はお米とシルクしかありませんでした。ですから外貨獲得のために製糸業に力を入れました。その名残が昨年世界遺産に選ばれた群馬県富岡製糸場です。この甲州におきましても製紙業は盛んで、甲州の商人は今の20号線甲州街道を経て16号横浜に製糸をはこびました。その名残が横浜にあります。当時まだ鉄道はありませんので馬車で製糸を運びました。この街道沿いに棚(店)を作りました。おそらく甲州と横浜のあいだ八王子あたりにもあったでしょうか。お店は大通りに面し、荷物は裏通りから搬入しました。それがYOKOHAMAの馬車道なのです。甲州から横浜へのルートは日本のシルクロードと呼ばれ、絹の他にも・・・・それは甲州弁です。じゃんじゃんは横浜の言葉ではなく甲州弁なのでした。理由は上記の所以です。文化や流行は高いところから低いところ田舎や辺境に伝播します。当時のYOKOHAMAはまだ小さな漁村です。甲府は幕府直轄であり、武田信玄の時代より当時としては大都会だったのです。

 1/14日よる七時半に上芦川のどんど焼きに行ってきました。煙にあたってお団子を食べてみなさんの健康を記念いたしました。そして翌日はその灰を頂きましたので家の周りに撒きました。家内安全や厄除け魔除けの為です。
by someday3601 | 2016-01-19 23:47 | 歳時記
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文献より
信松院(1561~1616)
 信松院(信松尼)は、もとの名を松姫といい、武田信玄の4女(6女とも)として生まれました。
 永禄10年(1567)、松姫7歳の時に織田家からのたっての願いにより、織田信長嫡男の奇妙丸(のちの信忠)と婚約。しかし、上洛を目指す信玄と、その途上を阻む位置にある徳川家康との関係に緊張感が増すにつれ、その徳川の背後にいる織田信長との関係も悪化し、それはついに元亀3年(1752)に武田・徳川の主力が激突した「三方ヶ原の戦い」が起きるに及んで決定的なものとなり、松姫と奇妙丸との婚約は自然解消となります。翌年、京へ武田菱の旗を立てるのを目前にして信玄が死去し、武田家は松姫の異母兄勝頼が継いだものの信玄時代の威勢を維持できずに次第に衰退、天正3年(1575)長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に完敗し、武田家の劣勢は避けがたいものとなりました。天正10年(1582)、松姫のかつての婚約者である織田信忠を総大将とした織田軍が甲斐になだれ込んでくるにいたり、松姫の同母兄で普段からとても仲のよかった仁科盛信が高遠城で史上稀に見る激戦を展開した後に自刃、追い詰められた勝頼も天目山で自刃し、名門武田家はここに滅亡したのでありました。この際、松姫は勝頼の強いすすめによって甲州街道を八王子にまで逃れ、心源院に隠棲します。

武田氏の滅亡後、八王子に落ち延びていた松姫のもとに織田信忠から迎えの使者が訪れる。6月2日、松姫が信忠に会いに行く道中にて本能寺の変が勃発し、信忠は二条御所で明智光秀を迎え討ち、自刃する(一部の史料には信忠の子・三法師の生母は実は松姫だったとするものもある)。
同年秋、22歳で心源院(現・八王子市下恩方町)に移り、出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の冥福を祈ったという。
天正18年(1590年)八王子・御所水(現・八王子市台町)のあばら家に移り住む。尼としての生活の傍ら、寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教え、蚕を育て、織物を作り得た収入で、3人の姫を養育する日々だったという。後世、八王子市が織物の町として発展したのは、この信松尼の存在があったからこそといっても過言ではないそうです。

元武田家臣であり、当時は江戸幕府代官頭の大久保長安は、信松尼のために草庵を作るなど支援をしたという。また、武田家の旧臣の多くからなる八王子千人同心たちの心の支えともなったという。


この信松尼が会津藩祖・保科正之公の母であるお志津(お静)の方を知ったのは、おそらく慶長15年(1610)のころ。当時、お志津の方は徳川秀忠との間に2度目の子を身ごもり、一族の悲壮な決意のもとに赤子の出産を決意したところでありました。なんとなれば、最初に身ごもった子は、秀忠の正妻である於江与の方の悋気に触れることを恐れ、水に流してしまっていたからです。しかし、将軍の子を2度までも水に流してしまっては畏れ多いことこの上もない、このうえは一族磔にされても、この子は無事に出産させてやろう、というのが、お志津の方の父や弟の決意でした。そして、この悲壮な決意を知ったのが、信松尼の姉である見性院。父信玄の豪放で緻密な性格を受け継いでいたこの賢女は、即時にお志津の方の援助を決意し、妹信松尼にも協力を依頼したのであったろうと思われます。見性院の意を呈した信松尼は、身重のお志津の方を見性院の知行地である武州安達郡の大牧村(現在の浦和)へ連れて行き、ここで無事に赤子を出産させました。この子こそが、のちの保科正之、会津松平家の祖であります。
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幼い幸松(のちの正之公)の成長を温かく見守っていた信松尼が、その性格のままの優しい笑みを浮かべつつ逝去したのは元和2年(1616)のこと。享年56。法名は、信松院殿月峰永琴大禅定尼。
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文献より
見性院(けんしょういん、? - 1622年6月17日(元和8年5月9日))は、戦国時代から江戸時代初期の女性。甲斐国武田家臣で親族衆の穴山信君(梅雪)の正室。武田信玄の次女で、母は信玄正室三条夫人とされる。同母兄に武田義信、同母姉に黄梅院殿(相模北条氏政正室)がいるほか、異母兄妹も多数いる。子に勝千代(信治)。

甲斐国に生まれる。穴山氏は甲斐南部河内地方の国衆で、信君の父である信友も信玄姉の南松院殿を正室とし、武田親族衆の筆頭として高い家格を有している。信君は信玄・勝頼期に重用され、河内・駿河江尻領を領する分郡領主となる。見性院は永禄年間に信君の正室となったと考えられているが、嫡男勝千代の誕生は元亀3年まで下る。天正10年(1582年)2月の織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐において信君は織田・徳川方に通じ、戦後はその功績から武田宗家の継承を認められるが、本能寺の変が発生すると上方にいた信君も宇治田原において横死し、穴山・武田宗家は穴山勝千代が当主となる。しかし勝千代も天正15年に早世したため、穴山氏は断絶する。

武田遺領を確保した徳川家康は、武田遺臣を保護して家臣団に加えているが、見性院も家康に保護されて江戸城北の丸に邸を与えられ、江戸幕府の2代将軍の徳川秀忠が侍女のお静に生ませた子(幸松、後の保科正之)を養育した。
墓所は埼玉県さいたま市緑区の清泰寺。

清泰寺の文化財
県指定旧跡 見性院(けんしょういん)の墓 昭和36年9月1日指定
  見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻でしたが、梅雪の死後、徳川家康に養われました。そして2代将軍秀忠に男子幸丸が誕生すると、その養育を頼まれ、7才まで育てました。幸丸は、後に信州高遠の城主保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称しました。正之は高遠から最上へ、そして会津へと移り、二十三万石の大名となり、幕政にも参画しています。
  見性院は元和8年(1622)に没しました。大牧村が所領であったことから、ここ清泰寺に葬られましたが、見性院に受けた恩を忘れなかった正之は、その冥福を祈るため清泰寺に霊廟を建てました。なお、安政5年(1858)建立の現在の墓石は、会津藩により建てられたものです。会津の人々も、名君を育てた見性院を慕っていたことがわかります。


まとめ

 戦国時代に甲斐の武田信玄騎馬隊24武将の強さは類をみませんでした。しかし上杉謙信との五度に及ぶ合戦で甘利氏や板垣氏、そして軍師山本氏を亡くし、調略調略の信玄の亡き後は、勝頼は求心力を失い、衰退の一途をたどってしまった。信玄・勝頼に重用された穴山氏は武田氏とは深い血縁関係にありながら造反したのも勝頼が正室の子ではなく諏訪氏の姫の庶子だったこともあっただろうか。いずれにせよ武田氏は滅んだ・・・・しかし正確には姫様がその血を繋ぐ形になった。やはりあの信玄の姫さまということで政治的にも大きな意義があったのだろうか。穴山氏正室の見性院と信松院が後の会津松平の藩主の養母となったのに歴史の妙がありますね。

 私事ですが妻のルーツは福島の会津にもあります。自分の母親のルーツは甲斐にあります。祖父の言い伝えによると更に遡ること京の公家の出であると。そうするというと信玄の正室の三条の方の随行に関係しているでしょうか。今回何故八王子に行ったのかといいますと、先週の頭にゴールデンの久(きゅうひめ)の婚姻の為、八王子の超常連の田村アルボ君(とのさま)におめどうりにまいった次第です。そうしたら歩いて2分くらいのところに信松院があったのでビックリポンでした。まだまだ知らないことが沢山ですね。丁度NHKの大河ドラマ『真田丸』で武田氏が滅びました。

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そして高幡不動尊には幕末会津と運命を共にした新選組近藤勇のお墓があります。
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先週末にはペンションにご宿泊頂いた折に頂いたのがこの高幡まんじゅうです。なんとまあタイムリーなお土産を頂きました。御馳走様でした。
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さて今年はそんな武田信玄の四女松姫こと信松院の生誕400年に当たります。歴史好き諸君ならば是非とも必見の価値がありますよ。
by someday3601 | 2016-01-18 19:10 | 歴史探訪
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なるさわ菜の漬物が美味しくて吾郎ちゃんに教えてと頼んだらば早速吾郎ちゃんの息子の知美さんが教えてくれました。なるさわ菜は八百屋に買いに行くのかと思っていたら畑に来いと・・・・・
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その場で刈り取りです。・・・・相当な量を頂きました。樽の大きさに合わせて菜っ葉を切ります。その際に黄色い葉っぱや傷んでいる部分は落とします。なるさわ菜って野沢菜に近いのです。葉っぱや茎を付けますが、地中にあるのは株のような感じです。実際生で採りたてを食べましたがやはり株に近いです。
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それを水洗いで泥や黄色い葉っぱを落としてゆきます。
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ある程度洗ったら水切りをします。
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樽になるさわ菜をそこから一段ずつ敷き込み塩ほかを振りまいて重ねてゆきます。昆布・レモンや鷹の爪も入れるといいでしょうか。
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さっき言ってた地中の株の部分をまた洗い、皮をむいてピーラーで皮をむきスライスしてみました。千枚漬けってこんな感じじゃなかったですか。
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そして重しを載せて、明日には下がった部分に更になるさわ菜を敷き詰めて一週間待ちます。
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三日くらいしたら軽い石に変えて蓋を占めます。

これで終了です。ペンション時々ファーム
by someday3601 | 2016-01-07 23:33 | あれ!!ドキドキふあ~む