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by someday3601
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カテゴリ:歴史探訪( 12 )

真田丸次週最終回

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真田丸次週最終回です。

信長・秀吉・家康と激動の戦国時代を生き抜くにはいろんな選択があった。誰につくか、どちらにつくかで一族の存亡がかかっていた。NHKの真田丸に出てくる長宗我部や毛利、上杉、数年前の大河の黒田もそうだった。
関ヶ原の合戦では旧勢力と新勢力の合戦で大名連合軍同志のまさに天下を二分する勢力の激突でした。その後の大阪冬の陣・夏の陣は、すでに天下を手中に収めた徳川と関ヶ原で敗れた側の武将で浪人達であります。
それをまとめて指揮した真田幸村の苦悩は大きかったと思います。

 新しい時代を迎えるには今までの秩序の維持と新しい秩序が整うまでには避けては通れない争いがあり血が流れた。後の江戸幕府軍と尊王攘夷を掲げる長州との戦いや、明治になっての戊辰戦争。西南戦争がそうだろう。どう生きるか・・・・義理か生き残るためのサバイバルか。どう生きるかということだったのでしょうか。

 義理以外にもたとえば政略結婚というのがあって・・・・いわゆる人質だったり同盟だったりです。事実真田幸村の正妻は豊臣秀吉亡きあと石田光成と共に豊臣家を支えた大谷吉嗣の姫だったり、幸村の兄の真田信之の正妻は家康の家来の重鎮本多氏の姫なので多分に影響が大きかったのではと察します。

 上杉氏や黒田氏のようにお家の存続の為の選択をしたものは多い中、義理で動かされてしまう場合もある。西南戦争の西郷隆盛もそうであったろうし、大阪冬の陣夏の陣では真田幸村もまた担ぎだされてしまったのであろうか。ある意味そういったもんもんとした反対勢力の落とし所を決着をして新しい世の中のスタートを切るために捨て石になったともいえます。


さて今回は三谷監督です。口語訳的で現代風に少しやりすぎた感もありますが、考えてみれば今から四百年くらい前の話です。そのうち自分は結構産まれてから50年以上経過しているわけだからから・・・考えてみればそんなに遠い昔ではないですよね。たとえば織田信長はブーツはいていたり、やそきちでしたっけ?黒人の家来がいたんですよね。やはり昔は標準語といえば京や大阪だったんだろうから現代ドラマにした場合にはそもそもギャップがあるのだとしたら三谷流もありでしょうか。キリ役の長澤まさみさんがタイムスリップしたみたいで楽しかった。さらに先日の放送でおもしろかったのは幸村の父である昌之の従妹の額賀氏に真田幸村兄弟は「このこわっぱー」と良く一括されていたのをおもひ出しました。今回は信之が額賀氏の子息を同じ手を使って「このこわっぱー」といってその場を切り抜けたことに三谷さんの気持ちが伝わってきました。


さあ週末は最終回です。謹んで拝見させて頂きます。歴史というのは年代を覚えたり名前を覚えるのが重要ではない。特に戦記物は勝てば官軍、負ければ賊軍で悲惨ですから。時代背景やそこに至るまでの過程がある。どう考えどう行動したのか・・・・・それをどうとらえて自らの生き方に反映してゆくのかそんな道しるべでもあります。真田幸村は敵将伊達政宗に自分の妻と子供たちを託し、また政宗もリスクを冒しながらも庇護した。この武士道?儒学的な考えに心打たれます。少なくともわれわれの少し前の日本人達です。
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by someday3601 | 2016-12-13 01:16 | 歴史探訪
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文献より
信松院(1561~1616)
 信松院(信松尼)は、もとの名を松姫といい、武田信玄の4女(6女とも)として生まれました。
 永禄10年(1567)、松姫7歳の時に織田家からのたっての願いにより、織田信長嫡男の奇妙丸(のちの信忠)と婚約。しかし、上洛を目指す信玄と、その途上を阻む位置にある徳川家康との関係に緊張感が増すにつれ、その徳川の背後にいる織田信長との関係も悪化し、それはついに元亀3年(1752)に武田・徳川の主力が激突した「三方ヶ原の戦い」が起きるに及んで決定的なものとなり、松姫と奇妙丸との婚約は自然解消となります。翌年、京へ武田菱の旗を立てるのを目前にして信玄が死去し、武田家は松姫の異母兄勝頼が継いだものの信玄時代の威勢を維持できずに次第に衰退、天正3年(1575)長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に完敗し、武田家の劣勢は避けがたいものとなりました。天正10年(1582)、松姫のかつての婚約者である織田信忠を総大将とした織田軍が甲斐になだれ込んでくるにいたり、松姫の同母兄で普段からとても仲のよかった仁科盛信が高遠城で史上稀に見る激戦を展開した後に自刃、追い詰められた勝頼も天目山で自刃し、名門武田家はここに滅亡したのでありました。この際、松姫は勝頼の強いすすめによって甲州街道を八王子にまで逃れ、心源院に隠棲します。

武田氏の滅亡後、八王子に落ち延びていた松姫のもとに織田信忠から迎えの使者が訪れる。6月2日、松姫が信忠に会いに行く道中にて本能寺の変が勃発し、信忠は二条御所で明智光秀を迎え討ち、自刃する(一部の史料には信忠の子・三法師の生母は実は松姫だったとするものもある)。
同年秋、22歳で心源院(現・八王子市下恩方町)に移り、出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の冥福を祈ったという。
天正18年(1590年)八王子・御所水(現・八王子市台町)のあばら家に移り住む。尼としての生活の傍ら、寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教え、蚕を育て、織物を作り得た収入で、3人の姫を養育する日々だったという。後世、八王子市が織物の町として発展したのは、この信松尼の存在があったからこそといっても過言ではないそうです。

元武田家臣であり、当時は江戸幕府代官頭の大久保長安は、信松尼のために草庵を作るなど支援をしたという。また、武田家の旧臣の多くからなる八王子千人同心たちの心の支えともなったという。


この信松尼が会津藩祖・保科正之公の母であるお志津(お静)の方を知ったのは、おそらく慶長15年(1610)のころ。当時、お志津の方は徳川秀忠との間に2度目の子を身ごもり、一族の悲壮な決意のもとに赤子の出産を決意したところでありました。なんとなれば、最初に身ごもった子は、秀忠の正妻である於江与の方の悋気に触れることを恐れ、水に流してしまっていたからです。しかし、将軍の子を2度までも水に流してしまっては畏れ多いことこの上もない、このうえは一族磔にされても、この子は無事に出産させてやろう、というのが、お志津の方の父や弟の決意でした。そして、この悲壮な決意を知ったのが、信松尼の姉である見性院。父信玄の豪放で緻密な性格を受け継いでいたこの賢女は、即時にお志津の方の援助を決意し、妹信松尼にも協力を依頼したのであったろうと思われます。見性院の意を呈した信松尼は、身重のお志津の方を見性院の知行地である武州安達郡の大牧村(現在の浦和)へ連れて行き、ここで無事に赤子を出産させました。この子こそが、のちの保科正之、会津松平家の祖であります。
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幼い幸松(のちの正之公)の成長を温かく見守っていた信松尼が、その性格のままの優しい笑みを浮かべつつ逝去したのは元和2年(1616)のこと。享年56。法名は、信松院殿月峰永琴大禅定尼。
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文献より
見性院(けんしょういん、? - 1622年6月17日(元和8年5月9日))は、戦国時代から江戸時代初期の女性。甲斐国武田家臣で親族衆の穴山信君(梅雪)の正室。武田信玄の次女で、母は信玄正室三条夫人とされる。同母兄に武田義信、同母姉に黄梅院殿(相模北条氏政正室)がいるほか、異母兄妹も多数いる。子に勝千代(信治)。

甲斐国に生まれる。穴山氏は甲斐南部河内地方の国衆で、信君の父である信友も信玄姉の南松院殿を正室とし、武田親族衆の筆頭として高い家格を有している。信君は信玄・勝頼期に重用され、河内・駿河江尻領を領する分郡領主となる。見性院は永禄年間に信君の正室となったと考えられているが、嫡男勝千代の誕生は元亀3年まで下る。天正10年(1582年)2月の織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐において信君は織田・徳川方に通じ、戦後はその功績から武田宗家の継承を認められるが、本能寺の変が発生すると上方にいた信君も宇治田原において横死し、穴山・武田宗家は穴山勝千代が当主となる。しかし勝千代も天正15年に早世したため、穴山氏は断絶する。

武田遺領を確保した徳川家康は、武田遺臣を保護して家臣団に加えているが、見性院も家康に保護されて江戸城北の丸に邸を与えられ、江戸幕府の2代将軍の徳川秀忠が侍女のお静に生ませた子(幸松、後の保科正之)を養育した。
墓所は埼玉県さいたま市緑区の清泰寺。

清泰寺の文化財
県指定旧跡 見性院(けんしょういん)の墓 昭和36年9月1日指定
  見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻でしたが、梅雪の死後、徳川家康に養われました。そして2代将軍秀忠に男子幸丸が誕生すると、その養育を頼まれ、7才まで育てました。幸丸は、後に信州高遠の城主保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称しました。正之は高遠から最上へ、そして会津へと移り、二十三万石の大名となり、幕政にも参画しています。
  見性院は元和8年(1622)に没しました。大牧村が所領であったことから、ここ清泰寺に葬られましたが、見性院に受けた恩を忘れなかった正之は、その冥福を祈るため清泰寺に霊廟を建てました。なお、安政5年(1858)建立の現在の墓石は、会津藩により建てられたものです。会津の人々も、名君を育てた見性院を慕っていたことがわかります。


まとめ

 戦国時代に甲斐の武田信玄騎馬隊24武将の強さは類をみませんでした。しかし上杉謙信との五度に及ぶ合戦で甘利氏や板垣氏、そして軍師山本氏を亡くし、調略調略の信玄の亡き後は、勝頼は求心力を失い、衰退の一途をたどってしまった。信玄・勝頼に重用された穴山氏は武田氏とは深い血縁関係にありながら造反したのも勝頼が正室の子ではなく諏訪氏の姫の庶子だったこともあっただろうか。いずれにせよ武田氏は滅んだ・・・・しかし正確には姫様がその血を繋ぐ形になった。やはりあの信玄の姫さまということで政治的にも大きな意義があったのだろうか。穴山氏正室の見性院と信松院が後の会津松平の藩主の養母となったのに歴史の妙がありますね。

 私事ですが妻のルーツは福島の会津にもあります。自分の母親のルーツは甲斐にあります。祖父の言い伝えによると更に遡ること京の公家の出であると。そうするというと信玄の正室の三条の方の随行に関係しているでしょうか。今回何故八王子に行ったのかといいますと、先週の頭にゴールデンの久(きゅうひめ)の婚姻の為、八王子の超常連の田村アルボ君(とのさま)におめどうりにまいった次第です。そうしたら歩いて2分くらいのところに信松院があったのでビックリポンでした。まだまだ知らないことが沢山ですね。丁度NHKの大河ドラマ『真田丸』で武田氏が滅びました。

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そして高幡不動尊には幕末会津と運命を共にした新選組近藤勇のお墓があります。
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先週末にはペンションにご宿泊頂いた折に頂いたのがこの高幡まんじゅうです。なんとまあタイムリーなお土産を頂きました。御馳走様でした。
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さて今年はそんな武田信玄の四女松姫こと信松院の生誕400年に当たります。歴史好き諸君ならば是非とも必見の価値がありますよ。
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by someday3601 | 2016-01-18 19:10 | 歴史探訪

討ち入りの日

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毎年この日にブログするのは高校時代に赤穂浪士47士を祖に持つ友人がいたからであります。奥田孫太夫の子孫です。その友人はその話をしてくれた時にこうも言っていた。自分の家系は男親が早死していると。彼の父上もまたそうであったように。これもまた因縁というものであろうか・・・・

改めて文献抜粋ですが・・・・勉強勉強

『仮名手本忠臣蔵』はのちに独参湯(薬の名前)とも呼ばれ、客が不入りの時でもこれを出せば当たるといわれるほどであった。さらに歌舞伎、浄瑠璃、講談で数多くの作品がつくられ、「忠臣蔵物」と呼ばれるジャンルを形成する。そのような作品のひとつに『仮名手本忠臣蔵』と怪談を組み合わせた鶴屋南北作『東海道四谷怪談』がある。

江戸時代、江戸幕府から同時代に起こった武家社会の事件を文芸や戯曲で取り上げることは禁じられていたので、赤穂事件についても幕府を憚って舞台を別時代とし、登場人物を他の歴史上の人物に仮託していた。近松の作品では『太平記』の時代を舞台とし、登場人物の名として浅野内匠頭を塩冶判官(塩冶高貞)、吉良上野介を高師直に擬し、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕したことを発端としており、『仮名手本忠臣蔵』でもこれに倣っている。しかし事件を表現していることがわかるように、塩冶の「塩」は赤穂の特産品である「赤穂塩」、高師直の「高」は吉良上野介の役職「高家」とかけられている。太平記に登場しない人物の名も変えられた(大石内蔵助→大星由良助など)。

「忠臣蔵」という題名の由来は、蔵一杯の忠臣という意味や、大石内蔵助の「蔵」にかけているなどとされるが、定かではない。「仮名手本」についても、以下のように色々な説明がなされている。

  • 仮名47文字すなわち四十七士を指す(実際、四十七士の各々の装束に、いろは仮名を一文字ずつ書いた浮世絵も多い)。
  • いろは歌を七文字毎に区切り一番下の文字を順に読むと「とかなくてしす」、すなわち「咎(とが)無くて死す」であることによる。幕府の禁止令により登場人物が実名ではなく「仮名」で呼ばれていることから。

明治以降、江戸幕府が滅亡しその憚りがなくなったので、登場人物の名を実名で上演することができるようになった。明治41年から福本日南が忠臣蔵の真相と銘打って、義士録をもとに浪士側に立った『元禄快挙録』を新聞連載して話題となり、近代日本の忠臣蔵観を主導した[1][2]。「忠臣蔵」は人気が高く、昭和9年(1934年)には資料調査をした新歌舞伎元禄忠臣蔵』(真山青果作)が上演されている。講談浪曲でも忠臣蔵は人気があり、「赤穂義士伝」と呼ばれ、事件の史実を扱った「本伝」、個々の赤穂四十七士を描いた「義士銘々伝」、周辺のエピソードを扱った「外伝」からなる。

第二次世界大戦後の連合国占領下では、厳しい言論・思想統制が行われた。連合国軍最高司令官総司令部は日本国内での報復運動の高まりを恐れ、「忠臣蔵」を題材とした作品は封建制の道徳観が民主化の妨げになるとし(仇討ちという復讐の物語なので)、当事件を題材とした作品の公演、出版等を一時期禁止したが、昭和22年(1947年)にはその禁も解かれ、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が東京劇場で上演されている。

本所の吉良邸襲撃の日は旧暦12月14日(正確には翌日未明)であったが、現在に至るも新暦12月14日が近づくと忠臣蔵のテレビドラマや映画が放映されるなど、その人気は衰えを見せない。


勧善懲悪の『水戸黄門漫遊記』や滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が創作物であったのに対し、『仮名手本忠臣蔵』は史実なのとすっかり大平の世の中にあって武士の精神性が薄れる中での忠義物であるために大いに流行った。


水戸黄門は、権中納言だった江戸時代水戸藩主・徳川光圀の別名称であり、彼が世直しの為に日本各地を漫遊したという創作物語の題名でもある。嘗ては専ら『水戸黄門漫遊記』と呼ばれた。

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南総里見八犬伝【なんそうさとみはっけんでん】

曲亭馬琴作の読本。98巻106冊。1814年―1842年刊。犬塚信乃犬飼現八犬山道節ら八犬士が,仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八玉の結ぶ因縁により,力を合わせて里見家を再興する話。

因みにここから自分のブログ名をいただき『南都留富士見発見伝』とさせて頂きました。

よって今までの登場人物の持っている珠は

仁  ゴールデンのジョン

儀  ミックスのニーナ

礼  

智  ゴールデンの久

忠  白柴のトニー

孝  Mダックスの空

悌  Mダックスの海

 あと最低礼と信の珠をもった犬士が現れるのです。


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by someday3601 | 2015-12-14 23:06 | 歴史探訪

花燃ゆ最終回

 NHK大河ドラマ毎回楽しみに再放送まで見ていました。幕末~明治維新以降の明治という時代を吉田松陰の妹文の視点で捉えた歴史ドラマです。高野長英・佐久間象山・吉田松陰という名はよくこの時代の大河ドラマには登場するもののその妹というのがユニークでした。多少の色付けはあるでしょうがドラマを通じて知ったのは凄い経歴を持った人だったんだなあということでした。僕はあまり勉強はしなかったですが日本史、世界史はなぜか好きだったのは小学生の低学年の時だけは歴史の本を好んで読んでいたからでしょうか。それでも高校受験・大学受験も出題範囲にあまり出てこない明治以降の近代日本です。学校の授業が追いつていなかったように明治以降は昭和までは案外読んでおいてください的な。


 全く個人的な意見ですが邪馬台国や卑弥呼・大化の改新などかるくスルーしてもっと身近な過去にスポットを当てるべきだとも。6親等が親族ならばなんていうのかわかりませんが自分を遡ること6代目は江戸時代なわけです。約150年前に300年近く続いた江戸時代が終わり主人公の井上真央さん演じる杉文(吉田松陰の妹)と同じ時代を生きているのです。明治維新・文明開化・富国強兵・・・・は日清日露の戦争へ・・・そして戦争特需とたまたま勝ったことで太平洋戦争へと突き進む結果に。戦後70年もう戦争を知らない子供たち????どころか戦争で我々一般市民が配給や思想言論統制・メディア統制など・・・どんな生活を強いられていたのか?朝鮮半島や中国・東南アジアやサイパンやパラオ・フィリピンなど海外で日本がどんな事をしたかを・・・真珠湾攻撃・沖縄戦・広島・長崎の原爆・・・・そして敗戦・アメリカの進駐・その当時を知る人の方が遥かに少ないのであります。このことを客観的に捉えることができるならば、もう少し賢くアジア諸国とお付き合いできるのかもと思います。

歴史を学ぶことってなんなんでしょう?過去の史実は変わりません。しかし過去を知ることで将来自分たちがどう振る舞うかがみえてくるのではないでしょうか。我々の寿命が100歳だとしてもも日本史においても2000年前から戦いの歴史です。アレクサンダー大王はそのまた昔なのです。僕らが生きる時代は戦争が起きなかった平和な日本の時代てあって欲しいです。もちろん子供や孫の時代も。しかし必ずといっていいほど歴史は繰り返されています。そして今なお空爆やテロが起きているわけです。戦後70年日本は戦争や紛争には無縁な平和国家です。それは自分たちの父親や祖父たちの犠牲の上に成り立っているのです。


試合に負けて勝負にかつ

 戦争で負けてのち平和な日本があります。もう何度となくブログしてますが少なくとも第二次世界大戦の戦勝国が危ういです。アメリカ・イギリス・フランス・中国などです。これは国民を指すのではなく一国のリーダーたちの舵取りを指しています。個人個人はみな優しい家族思いの人たちです。でも勝てば官軍なのです。敗戦国のドイツ・イタリア・日本は戦後70年戦争や紛争の当事者でなないのです。


今年憲法9条の解釈の問題で戦後日本の転換機となる法案が可決されました。僕たちは間違いなく平和が脅かされる時代に入りました。世界では空爆やテロが今なお行われています。民族・宗教や経済の利害での戦争だけでなく、ISの台頭でより複雑になっている。敵の敵は見方だ。なんだか先の大戦のドイツ・イタリア・日本の三国軍事同盟のような焦臭さを感じます

 さて話は変わりますが・・・・今回改めて自分なりに感じたことを書いてみました。もちろん主観ですし勉強不足なのでお恥ずかしいのですが・・・アメリカやフランス・イギリスがその武力や国力を背景に競って日本に開国を求めました。黒船の来航で日本中が揺れに揺れたわけですが、明治維新において薩摩・長州・公家が主導となり新政府を樹立しました。本当に最近までは新しい世の中にする為に幕府側と倒幕派ぐらいにしか思っていませんでしたが、明治維新後の戊辰戦争はもとより新政府樹立の立役者である薩摩の西南戦争・長州の萩の乱など各地の氏族の反乱を考えると、新しい世の中の仕組みを受け入れる側とそうでない側の戦いだったのだと。




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by someday3601 | 2015-12-13 22:26 | 歴史探訪

トンネル

1933(昭和8)年の6月19日、丹那トンネルが貫通しました。東海道本線は、東京から西日本主要地域を結ぶ最も重要な陸路でしたが、箱根火山の北側を迂回する区間には25‰の連続勾配があり、長距離列車の牽引重量が制限されていました。そこで、国府津から分岐し小田原を通って海岸沿いに進み、熱海から長大トンネルで抜けて沼津で在来線に合流する、新ルートが計画されました。

 箱根火山の南にある丹那盆地の地下を通ることから、この長大トンネルは「丹那トンネル」と命名され、1918(大正7)年に着工されました。予定工期は7年間で、1925(大正14)年に完成させる計画でしたが、箱根火山に隣接する多賀火山の基底部を掘削することになり、大量の出水に悩まされる難工事となりました。トンネルへの出水は丹那盆地を潤していた地下水を涸らすことになり、鉄道省は難工事に加えて、丹那盆地の渇水対策にも追われることになりました。

 1923(大正12)年9月1日、相模湾を震源とする関東大地震(M7.9)が発生。丹那トンネルに取り付ける新線のうち当時既に開業していた根府川駅では、地震動により崩壊・流動してきた火山砕屑物に走行中の列車が押し流される惨事が起きました。しかし掘削中の丹那トンネルは無事でした。


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by someday3601 | 2015-06-20 00:00 | 歴史探訪
ゲゲゲの父方のルーツは福島会津にある。僕の父方は薩摩である。幕末から維新であればとても許される仲ではなかったはずだ。


 大山巌と妻の山川捨松の周囲は想像を絶するものだったろう。この薩摩と会津には類似点も多かった。殿様を中心に強大な軍事力を持っていた。また薩摩では郷中制度というのがあり、また会津では什の掟というのがあった。薩摩は江戸幕府からは遠い西国の藩ゆえに目が行き届かずに貿易で利益を上げその財力と大陸からの影響で独自の文化を発展させた。いっぽう会津は将軍家を支えるという家訓(かきん)のもと藩校日新館では当時最先端の教育が行われていた。かの吉田松陰も認めていたという。そんな気質のにたところにお互い惹かれるものがあったのかもしれない。僕ら夫婦はどうだったか?重ねて考えるるには恐れ多いのですが。ムムムのム


さてこの両藩は似ていると言いましたがどんなところが似ていたのか文献より・・・・

*会津藩

什(じゅう)は会津藩における藩士の子弟を教育する組織。同様の組織に薩摩藩の「郷中」がある。
町内の区域を「辺」という単位に分け、辺を細分して「什」という藩士の子弟のグループに分けた。什では「什長」というリーダーが選ばれ、什長は毎日、什の構成員の家の座敷を輪番で借りて、什の構成員を集めて「什の掟」を訓示した。什の掟は7ヶ条からなる。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

*日新館
1798年(寛政10年)、会津藩家老・田中玄宰の進言により計画される。 1803年(享和3年)、会津藩の御用商人であった須田新九郎が新築経費を寄付したため、会津若松城の西隣に日新館の校舎が完成。東西約120間、南北およそ60間の敷地に水練場や天文台までをも備えた、全国有数の藩校となった。
当時の会津藩の上級藩士の子弟は10歳になると日新館に入学した。15歳までは素読所(小学)に属し、礼法、書学、武術などを学んだ。素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許された。全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関であると言える。1868年(慶応4年)、戊辰戦争により校舎は焼失。現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみ。


*薩摩藩

領内(りょうない)を「外城(とじょう)」という細かい区画に分けていました。それぞれの外城(とじょう)には、役所にあたる地頭仮屋(じとうかりや)をおき、その周りに「麓(ふもと)」という武家(ぶけ)集落をつくりました。外城(とじょう)の数は時期によって変化しますが、113カ所ほどありました。いざという時には、麓(ふもと)の武士たちが中心となって軍団をつくる仕組みでした。

外城(とじょう)は後に「郷(ごう)」と呼ばれるようになりました。

郷中(ごじゅう)教育
鹿児島では、「郷(ごう)」という地域(ちいき)ごとに、「郷中(ごじゅう)教育」という独特(どくとく)の青少年教育を行っていました。藩士(はんし)の子どもたちを、15歳(さい)前後~25歳(さい)前後の「二才(にせ)」と、6、7歳(さい)~15歳(さい)前後の「稚児(ちご)」に分けて、先輩が後輩を集団で指導(しどう)して学問や武芸(ぶげい)に励んで(はげんで)いました。

古くからの教え
出水(いずみ)には、「出水兵児修養掟(いずみへこしゅうようおきて)」と呼ばれる、江戸時代に作られた教えがありました。

「士(し)ハ節義(せつぎ)を嗜み(たしなみ)申すべく候(そうろう)」。人は正しいことをしなくてはいけないと言っています。

正しいこととは、うそを言わないこと、自分よがりの考えをもたないこと、素直(すなお)で礼儀(れいぎ)正しく、目上の人にペコペコしたり目下の人を馬鹿にしたりしないこと、困っている人は助け、約束は必ず守り、何事にも一生懸命(いっしょうけんめい)やること、人を困らせるような話や悪口などを言わないこと、自分が悪ければ首がはねられるようなことがあっても弁解(べんかい)したり恐れ(おそれ)たりしてはいけない、そのような強い心を持つこと、小さなことでこせこせしない広い心で相手の心の痛みが分かるやさしい心を持つこと、と教えています。
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島津(しまづ)家第28代当主の島津斉彬(しまづなりあきら)は、人材登用(とうよう)に優れ(すぐれ)ていました。また、藩主(はんしゅ)にして科学者でもあり、多くの功績(こうせき)を残しました。
斉彬(なりあきら)は、大砲(たいほう)を造る(つくる)ために反射炉(はんしゃろ)の建設(けんせつ)に取り組みました。
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薩摩藩(さつまはん)のガラス製造(せいぞう)は、島津(しまづ)家第27代当主の斉興(なりおき)が、江戸から招いた(まねいた)ガラス職人(しょくにん)に薬ビンをつくらせたのが始まりです。後を継いだ(ついだ)斉彬(なりあきら)は着色ガラスを研究させ、透明(とうめい)ガラスに色ガラスを被せ(かぶせ)、カットを施して(ほどこして)模様(もよう)を刻む(きざむ)「薩摩切子(さつまきりこ)」を完成させました。
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鹿児島市の磯(いそ)地区にある仙巌園(せんがんえん)は、島津(しまづ)家の別邸(べってい)があったところで、園内の鶴灯籠(つるどうろう)と呼ばれる石灯籠(いしどうろう)には、日本で初めてガスの明かりがともりました。斉彬(なりあきら)は、学者にガス灯の用法を書いた外国の本を翻訳(ほんやく)させ、磯別邸(いそべってい)にガス室を設置(せっち)。安政4(1857)年8月に、園内の鶴灯籠(つるどうろう)をはじめとする石灯籠(いしどうろう)に点火しました。
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斉彬(なりあきら)の側近の市来四郎(いちきしろう)は、安政4(1857)年に鉄製(てつせい)150ポンド砲(ほう)の製造(せいぞう)に成功した、と書き残しています。150ポンドとは砲弾(ほうだん)の重さのことで、約70キログラム。この砲弾(ほうだん)を約3,000メートル飛ばすことができたといいます。仙巌園(せんがんえん)で150ポンド砲(ほう)のレプリカを見ることができます。
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斉彬(なりあきら)は、嘉永4(1851)年に洋式帆船(はんせん)づくりを始めました。3年後には3本マストの「伊呂波丸(いろはまる)」が完成し、その後、日本初の洋式軍艦(ぐんかん)「昇平丸(しょうへいまる)」を、さらに日本初の蒸気(じょうき)船「雲行丸(うんこうまる)」を完成させました。どちらも翻訳(ほんやく)書を使いながら、日本人だけで苦労して成し遂げ(なしとげ)ました。


このような両藩でしたが西国で貿易で栄えてきた薩摩と海を持たない会津ではおのずと違いがはっきりしていました。またお互いの雄藩としての立場の違いも大きかったでしょう。維新後の勢力争いは日本という国の中だけではなく、薩長土肥についたアメリカや、一方幕府側についたフランスなどヨーロッパの列強もそうだった。維新後は社会の仕組みという考え方の違いは藩の枠を超えて争いが始まる。日本各地の士族の反乱は西南戦争の集結を持って終わり。それと時を同じくして維新のて立役者となった者たちの多くが世を去り改めて新しい世の中の始まりを告げたのであった。古いものを捨てなければ新しいものは入らなかったのである。しかし会津や薩摩・長州をはじめ多くの命と引き換えに士農工商の武家の封建政治は終焉を迎えあの身分を超えたエネルギッシュな明治という時代を迎えたのであった。それは僕らの何代かまえの祖先の話なのでした。




********薩摩と会津には相当の因縁があったのです。幕末京都の蛤御門の変では会津と薩摩は手を結び長州藩を追い払った。しかし戊辰戦争では一転、薩摩と長州が手を結び会津を滅ぼした。会津戦争当時新政府軍の侍大将が西郷隆盛で賊軍にされた会津の家老が西郷頼母であったのは以前も書いた。戦国時代は三河の国で松平家(後の徳川)に臣従し、江戸幕府とともに関東に入った。会津は東北の関所であり伊達や旧豊臣側の大名に睨みを効かせていたのである。

*保科正之

この初代会津藩主である正之は謹直な男だった。三代将軍家光の実弟であるにもかかわらず、家光にはいっさい狎れず、よく仕えたので、家光もこの人物を愛し、臨終のとき正之ひとりを病床によび「宗家を頼む」
といって死んだ。この時の正之の感動が、その制定した家訓になってあらわれている。家訓は十五箇条から成っているが、その一条に、「わが子孫たる者は将軍に対し一途に忠勤をはげめ。他の大名の例をもってわが家を考えてはならない。もしわしの子孫で二心をいだくような者があればそれはわしの子孫ではない。家来たちはそのような者の服従してはならない」という意味のことを書いた。この時代の大名の家訓のなかで、将軍に対する忠義をこれほど烈しく説きこんだ例はない。 正之は、家康の血統のなかではもっともすぐれた頭脳と政治能力をもっていた。藩制を独特な政治学をもって整え、藩士を教育し、好学と尚武の藩風をつくりあげ、ほとんど芸術的といっていいほどの藩組織を完成して、寛文十二年六十二で死んだ。この正之の遺訓、言行が、幕末までこの藩の藩是となった。皮肉にもこの御家訓の呪縛が会津藩を破滅へと導いてしまったのである。

会津松平家に代々家老といして勤めたのが三河の西郷家であり、薩摩の島津家に臣従ったのはその諸流であり言わば遠い親戚なのです。西郷隆盛が13代将軍家定の妻つまり篤姫(天璋院)にお側用人として使えていたのを考えると会津と薩摩二人の西郷も平和であったろう。幕末では会津戦争の指揮を執った西郷隆盛も西南戦争では従兄弟の大山巌が新政府軍の指揮を執り、その中には多くの旧会津の武士がいたそうです。会津の松平容保が京都守護職を孝明天皇より拝命した時に、過激な尊王攘夷を唱える脱藩浪士から京都の治安を守るために会津の別動隊を指揮した佐川勘兵衛や新選組NO2の斎藤一も警官として従軍していた。斎藤は維新後八重の幼なじみ・高木時尾と結婚。



*大山巌
薩摩藩士・大山彦八の次男。西郷隆盛の従兄弟。薩英戦争で彼我の実力差に衝撃を受け、江川塾にて砲術を学ぶ。鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍二番砲隊を指揮して戦い、会津戦争で右股を撃たれ負傷。この狙撃は、八重であったともいわれている。維新後、日本人初の近代火砲を発明、「弥助砲」と呼ばれる。後に、日本初の女子留学生であり、山川家の末子・捨松(咲)と再婚、元薩摩藩士との結婚は、会津で物議を醸すことになる。後年、日露戦争でも大役を果たす。日清日露戦争中、満州で日清戦争直前には右目を失明していたという記録が残っているが、日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め、ともに日本の勝利に大きく貢献した。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。

*新島八重
明治23年(1890年)4月26日、八重は日本赤十字社の正社員となり、明治27年(1894年)の日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4ヵ月間篤志看護婦として従軍。 40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めた。明治29年(1896年)、その時の功績が認められ、勲七等宝冠章が授与された。その後、篤志看護婦人会の看護学修業証を得て看護学校の助教を務め、明治37年(1904年)の日露戦争時には、大阪の陸軍予備病院で2ヶ月間篤志看護婦として従軍し、その功績によって勲六等宝冠章が授与された。日露戦争での大山巌と新島八重さんの関係も興味深いです。


*山川大倉
国家老・山川家の長男。15歳で父を失い家督を継ぐ。八重とは同い年。子どものころから優秀な浩にとって、勝気な八重は目の上のたんこぶ。しかし、ぶつかりながらも淡い初恋の相手として八重を意識するようになる。18歳で物頭役(いわゆる侍大将)、一時期、尊王攘夷思想に感化されたが、ロシア留学を経て攘夷の非を悟る。会津戦争では、西軍に包囲された鶴ヶ城に会津の伝統芸能「彼岸獅子」を舞いながら入城するという離れ業を演じ、敵味方に「知恵の山川」とたたえられる。敗戦後、斗南藩の大参事として旧会津藩士たちをまとめ、朝敵の汚名をそそぐべく奔走する。



*山川捨松
 上記山川大倉の末の妹。
幼名は咲。幼くして家族とともに鶴ヶ城籠城戦を経験する。美貌と知性に秀で、11歳のときに、後に女子教育の先駆者となる津田梅子らと日本初の女子留学生として1871(明治4)年、岩倉具視の使節団に加わりアメリカに渡る。母・艶は咲という幼名を「一度捨てたつもりで帰国を待つ(松)」という切なる思いを込めて、「捨松」と改名させる。帰国後、薩摩の陸軍軍人・大山巌と結婚。美貌と知性を持ち合わせ、鹿鳴館時代の社交界の中心となって、「鹿鳴館の華」とたたえられる。しかし会津の元家老の娘・捨松と仇敵(きゅうてき)・薩摩の大山巌との結婚は、地元・会津にとって衝撃的なニュースで、山川家には抗議の手紙が殺到したと伝わっている。




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by someday3601 | 2013-10-25 00:03 | 歴史探訪
そんなには遠くない過去にあったこと。
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1868(明治元)年のこの日、戊辰戦争で会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃した。
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会津藩では軍を年齢により白虎・朱雀・青龍・玄武の4つの班に分けており、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年で編成されていた。会津藩等の奥羽越列藩同盟が官軍と戦闘状態に入ると白虎隊も実戦に参加し、越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げていた。
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この日、飯盛山にいた白虎隊の士中二番隊員が、城下の町に火の手が上がったのを会津落が落城したものと思い、20人の隊員全員が自刃した。
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by someday3601 | 2013-08-23 12:58 | 歴史探訪

新撰組(壬生の浪士組)

  幕末会津と新撰組は運命的あるいは宿命的な出会いであった。八重の桜では新撰組がいよいよ登場してきます。近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨・藤堂平助は有名です。あまり記憶がなかったのが会津新撰組局長の斎藤一だ。まだまだ知らないことが沢山」あります。一人の人間にスポットを当てるとまた違うものが見えてくるのが興味深いのです。
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 こうした新しい時代の夜明けは旧体制の崩壊の上にある。なにを志し、誰に忠誠するのかである。徳川幕藩体制は封建社会の中だから必ずしも自分の意志とは行かない。士族階級であれば脱藩浪人になるしかなかった。
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 この斎藤一と言う人は新選組では副長助勤、三番隊組長、撃剣師範を務める。一時期御陵衛士に入隊。戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦う。廃藩後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷隆盛軍と戦う。


  あっち側だったりこっち側だったりよくわかりませんが、いいもわるいも徳川360年の崩壊と開国という大きな歴史の流れの真っただ中だったのでしょうか。


そんな斎藤一ですがNHK大河ドラマでは降谷建志さんが演じます。そうドラゴンアッシュのKJこと・・・・お父さんはあの古谷一行さんで・・・奥様はメグミさんです。

 それでは本日エンディングはドラゴンアッシュでGrateful Days でチェケラウト!!

俺は東京生まれHIP HOP育ち
悪そうな奴は大体友達
悪そうな奴と大体同じ
裏の道歩き見てきたこの街 ・・・・・・・

斎藤一もGrateful Days だったのでしょう。信じた道を幕末から明治にかけて一生懸命に生き抜いたのでしょう。

 
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by someday3601 | 2013-02-18 16:35 | 歴史探訪

極上の会津

  自称極上の会津プロジェクト協議会の特別会員ワン達です。
今回は末広酒造株式会社のお酒の紹介です。創業1850年と言うから将に幕末であります。まずは試飲じゃな・・・・純米吟醸酒『八重さん』です。のんでくなんしょ・・・・
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時々会津の宣伝部長として頑張りますので・・・・・まずはグビッと・・・・
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美味しくてぽわ~んとしてきました。(ニーナ)  
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もう撃沈!!(ニーナ)
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俺も睡魔が襲ってきた(ジョン)・・・・・・やっぱ大吟醸かな(そら&かい)

  ってなわけで川崎正之助(ジョン)と山本八重(ニーナ)それと末広酒造の杜氏(そら&かい)にて会津の日本酒を紹介させて頂きました。

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伝統の味わいを守る二人の兄弟そら&かい
さてヨッパライが寝てる間に日本酒講座開催いたします。おおざっぱですが特徴をかいつまんで・・・・あくまでも素人向けにね・・・・・
日本酒は、日本特有の製法で醸造された酒。一般的には、米と麹と水を主な原料とする醸造酒である清酒を指す。

*本醸造酒
本醸造酒とは、精米歩合70%以下の白米、米こうじ、醸造アルコール及び水を原料として製造した清酒で、香味及び色沢が良好なものに用いることができる名称である。製造された本醸造酒は、そのままではアルコール度数が高いので水で割ってあることが多い(割水)。そのため、旨味や甘味にとぼしく、一般的に味は軽くなり、すっきりしたものとなる。

*純米酒
純米酒とは、白米、米こうじ及び水のみを原料として製造した清酒で、香味及び色沢が良好なものに用いることができる名称である。純米酒は、一般に吟醸酒(純米のものを含む)や本醸造酒に比べて濃厚な味わいであり、蔵ごとの個性が強いといわれる。

* 吟醸酒・純米吟醸酒
吟醸酒とは、精米歩合60%以下の白米、米こうじ及び水、又はこれらと醸造アルコールを原料とし、吟味して製造した清酒で、固有の香味及び色沢が良好なものに用いることができる名称である。吟醸酒のうち、醸造アルコールを添加していないものを特に純米吟醸酒という。一般に、他の吟醸酒に比べて穏やかな香り(控えめな香り)となる。

*大吟醸酒・純米大吟醸酒
大吟醸酒とは、吟醸酒のうち、精米歩合50%以下の白米を原料として製造し、固有の香味及び色沢が特に良好なものに用いることができる名称である。吟醸酒よりさらに徹底して低温長期発酵する。最後に吟醸香を引き出すために少量の醸造アルコールを添加する。大吟醸酒のうち、醸造アルコールを添加せず、米、米こうじ及び水のみを原料として製造したものには純米大吟醸酒という名称を用いることができる。一般に、他の大吟醸酒に比べて、穏やかな香りで味わい深い。大吟醸酒は最高の酒米を極限まで磨き、蔵人の力を結集して醸した日本酒の最高峰といえる。

PS サムデイの日本酒はいつも純米吟醸だけど・・・・それぞれに特徴があるのでいろいろと取扱いも幅広くてもいいんじゃないのかなあ。今度は飲み方にスポットを当ててみたいと思ってます。それからサムデイで末広の八重さんの取り扱いがございますが・・・・お土産用もございますので御用命ください。720MLで1500円です。(化粧箱入り)まいどおおきに!!(そら&かい)

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by someday3601 | 2013-02-17 16:12 | 歴史探訪
  昨夜歌舞伎役者の十二代目市川団十郎さんが肺炎のため亡くなられました。
先述したようにこの山梨に縁のある市川団十郎さんです。歌舞伎界はもとより日本の宝の損失でした。御冥福をお祈りするとともに海老蔵さんには後をしっかり引き継いでくれるよう応援したいと思います。
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中村勘三郎さんの事があったばかりで不幸が続き残念です。新しい歌舞伎座が出来ましたら必ずや観劇したいと思います。
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桔梗屋さんの団十郎十八番を頂き故人を偲びたいと思います。
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by someday3601 | 2013-02-04 20:33 | 歴史探訪