自慢の叔父がいる
2016年 05月 05日
自分などはペンションはじめるのには何の迷いもなくう失敗も考えなかったし何とかなると思ってましたが退路は何本も用意しました。そう打算的なのです。妻帯者なれば最低限の危機管理だけはね。最近山梨も農家したいとか宿泊業したいとかいって若者が頑張っています。若者はいい失敗は経験となりますから。しかし定年リタイア組の失敗は打撃になります。自分が生まれ育った馴染みの土地で知り合いもいればまだしも全くの初めての土地ならば今までの経験や経歴が邪魔してしまってなかなか地域に馴染めないものです。年齢的にも色々とある中で医療過疎という問題もあります。こんな田舎の限界集落で派閥だったり陰口だったりもうそんなのばかり聞かされてきたのでこのところいささか嫌気がさしておりました。そう言う人をたくさん知ってます。その人たちは必ずといっていいほどこんなことを言います。『骨を埋める』とか『恩返し』なんてことを。恩という言葉を使う人は九分九厘恩着せがましい。おとぎ話の鶴の恩返しだって最後の最期までひた隠しにしたというのに、現実は誰もが俺が俺がやってやったと言わんばかりですね。人間誰しもそういう事なんでしょう。そして見返りを求めるようになるのだとも。斯く言う自分も人にしてもらったことは忘れるくせに、自分が施したことは覚えている。全くしょうもない人間です。
恩返し・・・少しはやっているのだろうがそんな自分に酔ってしまってビッグマウスになっているがその実何も成し遂げていないのです。人生は思ふより短いのだから自分の吐いた言葉に囚われすぎてもいけないだろう。終の棲家でもないのだろうから程ほどにしたらいい。実際年金だけでは暮らせないのならば仕事がある街中に暮らし、週末田舎暮らしをしたらいい。何年かしたら気が済むのだから。所詮は住民ではないのです。ビジター。しかし自分は住んでいる以上はそうはいきません。自治会やらなんやらありますし、何かあってやーめたなんてわけにはいかないのです。だから僕は身内を褒めるのはどうかと思いますが叔父は頑張っているし人生を楽しんでいるように見えます。楽しいと楽(らく)は同じ字を書きます。楽しんで楽していない人が何を言っても信憑性はないのです。それは周りの人がその人を見ていて感じることのほうが大きいから。いくら頑張っていても陰口ばかりではどうして楽しいでしょうか?人生の楽園とはどんなものでしょうか?別に田舎来て過疎の集落を活性化のお手伝いやってやってる的な事ではなく、普段の家族との生活の中にだってあるんじゃないのかなあ?って思います。昔は地域の活性化はワカモノ、ヨソモノ、バカモノと言われましたが銭がなければバカモノにはなれないのでしょうか。すぐに打算的になってしまいます。