会津の犬旅・・・鶴ケ城と飯盛山・会津藩校日新館
2013年 02月 01日
会津若松の鶴ケ城
犬も歩けます。糞の始末は絶対です。
白虎隊
飯盛山から見た会津若松市街
会津若松城下が炎上するをみてもはやこれまでと自刃した白虎隊の隊士の墓。
実際には籠城戦において自ら城下に火を放ったのであったが・・・・結果的にはそれを知らぬ会津藩士並びにその一族郎党は新政府軍がそこまで来ていて・・・もはやこれまでと多くの悲劇を招いてしまった。籠城戦をしていた藩主松平容保ほか新島八重など降伏により会津戦争終結後も生き伸びている。
白虎隊士飯沼貞吉の墓・・・・飯盛山
案内板によると「 白虎隊士自刃者唯一の蘇生者、飯沼貞吉少年(後貞雄と改めた)は印出新蔵の妻ハツに助けられ、後通信省の技師となり仙台通信局工務部長に進み、通信事業に挺身と多大の貢献をなし昭和6年78才で仙台市において没した。白虎隊の実録も飯沼貞雄氏によって知ることができた。昭和32年9月戊辰戦役90年祭に財団法人前島会仙台支部の手によって、ここに墓碑と顕彰碑が建てられた。」とあります。貞雄は生き残った事を生涯悔い会津若松には近寄らなかったと言われ、遺言により白虎隊の墓近くに昭和32年(1957)に遺骨の一部が分骨され埋葬されました。
烈婦の碑
会津藩殉難烈婦の碑は飯盛山の白虎隊の墓付近にあります。案内板によると「 この碑は、会津藩戊辰戦役で自刃又は戦士した婦女子二百余名の霊を弔うため昭和3年4月旧藩士山川健次郎氏(男爵、理学博士、帝大総長)等の篤志家によって建てられた顕彰碑である。」とあります。 会津藩家老西郷母頼の母・妻・女子をはじめ婦女子の自刃はあまりにも悲惨でした。
愛犬クマ 滝沢山中に出迎えの銅像。
白虎隊士と離れた酒井峰治(16歳)。幸運にも愛犬クマの出迎えを受け元気になり、クマの道案内により、無事入城し、籠城戦に活躍した。
日新館
1798年会津藩家老田中玄宰の進言により計画される。 1803年会津藩の御用商人であった須田新九郎が新築経費を寄付したため、会津若松城の西隣に日新館の校舎が完成。東西約120間、南北およそ60間の敷地に水練場や天文台までをも備えた、全国有数の藩校となった。
復元された日本最古とされる水練場
当時の会津藩の上級藩士の子弟は10歳になると日新館に入学した。15歳までは素読所(小学)に属し、礼法、書学、武術などを学んだ。素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許された。全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関であると言える。
日新館における弓術は日置流(へきりゅう)一流で印西、道雪、豊秀の三派がありました。的場は、三派の境界に低い土堤をもうけ、各派毎に教場がありました。現在は、全国大会などに使用できるよう二つの派をまとめた大きさに造ってあります。また、正面には磐梯山が悠然と構える最高の弓道場となっております。
1868年(慶応4年)、戊辰戦争により校舎は焼失。現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみ。
會津藩校日新館
実際の藩校は焼失したものの藩校に関する図面などの資料が残っていたため総工費34億円を費やし、1987年(昭和62年)3月に會津藩校日新館として会津若松市河東町に完全復元、開館した。この施設は、博物館・道場(弓道場・武道場)・研修や宿泊施設・映画撮影所などを兼ねており、各種の武道団体も頻繁に練習や合宿に利用している。
詳細は下記サイトをチェック!!
http://www.nisshinkan.jp/