やまなしの情報や看板犬の日常を南総里見八犬伝ならぬ南都留富士見4犬伝でリポートします。


by someday3601
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傀儡子・白拍子・歌舞伎

  今年もNHK大河ドラマ『平清盛』には楽しませて頂きました。最期だから以前触れた傀儡子(くぐつ)・白拍子・歌舞伎についてもう少し・・・・・・・その前に平安時代について

平安時代(794年-1185年/1192年頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が鎌倉幕府が成立(平氏政権で一時期福原京が造営された)するまで政治上唯一の中心であったことから、平安時代と称する。

傀儡子(くぐつ、傀儡とも言う)とは、流浪の民や旅芸人とされ、狩猟と芸能を生業とした半狩猟半芸能の集団。 傀儡師とも書き、女性の場合は傀儡女(くぐつめ)ともいう。歌などに合わせて舞わす操り人形。でく(でくの棒はここからきている)。かいらい(どこかの政党と一緒)。平安時代以降、今様をうたったりして各地を漂泊した芸人。くぐつの女たちが歌舞を演じ、売春をもしたところから芸妓・遊女の称。 日本では古来より数多くの呼称があり、古く『万葉集』には、遊行女婦(うかれめ)の名で書かれており、平安時代になるとこれに代わって遊女(あそび)がでてくる。中世には、傀儡女(くぐつめ)や白拍子(しらびょうし)、傾城(けいせい)、上臈(じょうろう)などと呼ばれていた。

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                なんばしよっとね・・・バッテン荒川
近世になると、女郎(じょろう)、遊君(ゆうくん)、娼妓(しょうぎ)といった呼称もあらわれる。太夫は最高位の遊女。江戸 吉原遊郭では一時期これを特に花魁(おいらん)といった。湯屋で働く湯女(ゆな)や、旅籠で働く飯盛女(めしもりおんな)はより大衆的な売春婦であった。そのほかにも街頭で色香を売る京都の辻君(つじぎみ)や大坂の惣嫁(そうか)、江戸の夜鷹(よたか)もいた。
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               なぜか小梅太夫
平安時代(9世紀)にはすでに存在し、それ以前からも連綿と続いていたとされる。当初は、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」と言われている。

操り人形の人形劇(人形浄瑠璃の元祖)を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたとも言われる。
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人形浄瑠璃といえば上方の近松門左衛門(元禄時代)

寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護され、猿楽に昇華し、操り人形は人形浄瑠璃となり、その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎となっていった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている。
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  ちょっと休憩・・・こちら我らが辻村ジュサブローさんの新八犬伝



寺社に抱えられなかった多くも、寺社との繋がりは強くなっていき、祭りや市の隆盛もあり、旅芸人や渡り芸人としての地位を確立していった。寺社との繋がりや禊や祓いとしての客との褥から、その後の渡り巫女(歩巫女、梓巫女、市子)として変化していき、そのまま剣舞や辻相撲や滑稽芸を行うもの、大神楽や舞神楽を行う芸人やそれらを客寄せとした街商(香具師・矢師)など現在の古典芸能や幾つかの古式床しい生業として現在も引き継がれている。

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                      静御前

白拍子とは
白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人。主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた。素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指す。

ここで白拍子とは?平安時代後期に流行した歌舞の一つで当世風の今様(いまよう)をいう。また、それを歌い舞うことを職業とする物腰柔らかな舞をみせる女性を含めて白拍子と言うようになっている。本来の意味は声明の拍子の名称で、普通の拍子とか伴奏を伴わないということ。この今様の熱烈なファンが後白河法皇であったといわれている。

複数の白拍子が登場する鎌倉時代前期の軍記物語『平家物語』では、白拍子の起源について「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」としている。

また「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。
白拍子は、男女問わずに舞われたものであったが、主として女性・子供が舞う事が多かった。

古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという。


このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった。

白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさす(時代が下ると色つきの衣装を着ることも多かった)という男装で歌や舞を披露した。伴奏には鼓、時には笛などを用いた。

後に、猿楽などへと変貌していった。後に早歌(そうが)や曲舞(くせまい)などの起こる素地ともなった。また延年にも取り入れられ、室町時代初期まで残った。

白拍子は遊女だ。遊女ではあるが、主に貴族の相手をする高級娼婦だった。
平安時代の芸人は、芸だけでは飯を食えない。社会からドロップアウトした人々(例えば非人と呼ばれる集団)は人が嫌う様々な汚れ仕事を引き受けていた。女性は売春も当り前のことだった。そういう中から歌や舞、曲芸を演じて金を貰うという、今で言う大道芸人的な者達も現れたが、それらの人々にとっても特に女性ならば売春は避けられない仕事の一部だった。芸事の興行をするにも土地の権力者・顔役のご機嫌を取ることが必要だったからだ。
庶民の相手をする遊女とは違って、舞を舞えるだけでなく、教養もあったが、それは銀座のトップクラスのホステスも相当な知識・教養があるのと同じことだ。また、白拍子も銀座のトップクラスのホステスと同じく、誰にでも奉仕をするわけではなかった。とはいえ、身分的には現代の銀座のホステスより遥かに下であり、いくら高級とはいえ遊女という下賎な身分であることに違いは無い。

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                   平清盛
平清盛出生について
1118年伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれる(実父は白河天皇という説もある)生母は不明だが、もと白河法皇に仕えた女房で、『平家物語』の語り本系の諸本は清盛の生母を祇園女御としているが、読み本系の延慶本は清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている。また、近江国胡宮神社文書(『仏舎利相承系図』)は清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を猶子としたと記している。

白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など貴紳に愛された白拍子も多い。また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い。


歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定)。世界無形遺産(2009年9月登録)。
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              日本固有なカブキロックス
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              世界遺産なKISS

歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596年 - 1615年)に京・江戸で一世を風靡したのが出雲阿国である。慶長8年(1603年)京都で始めたと言われる。その後阿国を模倣したさまざまな踊りが世に出たが、その多くが「かぶき踊り」の範疇で受け取られた。これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。寛永6年(1629年)に女歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字に代わって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。

歌舞伎役者の屋号は、江戸時代のはじめ頃に商人にならって用いるようになった。市川宗家の「成田屋」をその嚆矢とするといわれる。

当初「河原者」と呼ばれて非人扱いだった芝居役者が、町奉行所における裁きで良民と認められたのは宝永5年 (1708) のことだった。その結果、それまでは裏路地や横丁に押しやられていた役者も、胸を張って表通りに住居を構えることができるようになった。しかし当時表通りに居を構えることができるような富をもっていたのは裕福な商家ぐらいのもので、金なら唸るほどあっても身分がなかった役者にとって、良民になったからといってすぐに表通りに割り込むのはさすがに気が引けた。そこで財力に余裕のある役者のなかには実家の生業の江戸店(えどだな、「江戸支店」)を出してみたり、新規に自らの商店を始めたりする者もいた。すると、そもそも副業からの収入が生計の安定には不可欠だった脇役の役者たちも軒なみ右へ倣えで、こぞって小規模な店を出すようになった。商店を持つ者同士がお互いのことを屋号で呼び合うのは今日でも同じである。この慣行がやがて芝居関係者を通じて一般に広まり、今日のようによく知られた役者屋号となった。

歌舞伎の舞台で、客席の大向うから舞台上の役者に掛かる「オトワヤッ!」「ハリマヤッ!」などという掛け声の多くは、実はこの役者の屋号である。歌舞伎の世界では、劇場の内外にかかわらず役者を名跡の名字や名で直接呼ぶのは失礼に当たると考えられており、通常はこの屋号で二人称・三人称を語る。例えば市川團十郎のことは、「成田屋さんは……」と呼びかけ、「成田屋のお家芸は……」などと語るのが礼儀で、「市川さん……」「團十郎さんは……」などと呼びかけたり「市川團十郎家の家の芸は……」などとはいわないのが礼儀となっている。

屋号の由来は、自身や実家の経営する商店の屋号のほかにも、幼少のころ自分が丁稚奉公していた商店の屋号を借用したり、信奉する社寺の山号や出身地の地名を取ったりしたものなど、さまざまである。今日では由来がわからなくなってしまったものも少なくない。屋号は実際のところ、他家との区別できれば良いものであって、由来などはあくまでも二次的なものにすぎなかったのである。




中村屋
猿若勘三郎が寛永元年 (1624) に開場した江戸三座のなかで最も古い中村座の座号がその名の由来。猿若勘三郎は後に座号をとって中村勘三郎と改名、これが代々中村座の座元(一座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡として受け継がれた。
後代には座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりするようになり、劇場経営権が座から分離された明治以後は「中村勘三郎」は単に歌舞伎役者の名跡のひとつとなった。屋号は初代以降が柏屋(かしわや)。十四・十五・十六代目の勘三郎は実際に襲名した者がない「預かり名跡」だが、便宜上これを舞鶴屋(まいづるや)と呼んでいる。昭和25年 (1950)、それまで長く絶えていた「中村勘三郎」の名跡を十七代目が襲名するにあたり、代々相伝する名跡と座号にちなんで屋号を新たに中村屋とした。



成田屋
成田屋(なりたや)は、歌舞伎役者の屋号。歌舞伎における屋号の始まりといわれる。 初代市川團十郎の父・堀越重蔵は成田山新勝寺にほど近い地の出身で、新勝寺とは少なからず縁があった。子に恵まれなかった初代團十郎が、この父由縁の成田山に子宝祈願をしたところ、見事翌元禄元年 (1688) に二代目團十郎を授かった。この子は健常ですくすくと成長したので、初代團十郎はこれに報謝して元禄八年 (1695) 山村座で『成田不動明王山』を上演。これが大当で、舞台には銭10貫もの賽銭が投げこまれ、大向うからは「成田屋っ!」という掛け声が掛かったという。これが「成田屋」の屋号の由来である。


音羽屋
音羽屋(おとわや)は、歌舞伎役者の屋号。
初代尾上菊五郎の父・半平は、京の都萬太夫座(みやこ まんだゆう ざ)付き芝居茶屋の出方を営んでいたが、生まれたのが東山の清水寺にほど近い地だったことから、その境内の「音羽の滝」にちなんで、自らを音羽屋半平(おとわや はんぺい)と名乗っていたことがその名の由来。
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これを機に歌舞伎の観劇行きたいと考えてます。このブログは先日亡くなられた『かぶきもの』中村勘三郎さんの魂に捧ぐ


編集後記

  自分の知識ではない。いくつかの文献を読みあさって自分なりにまとめたのですが・・・・支離滅裂気味か。いずれにしても傀儡子と白拍子に始まりこの山梨にも深い関係のある歌舞伎の市川団十郎にたどりつき最期には中村勘三郎に辿り着いたわけです。知らないことってまだまだ沢山あります。
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今宵の最期のリクエストは『平清盛』メインテーマをユーチューブで聴いてほしい

             今週最終回 『あそびをせんとやうまれけん』
                                 おれはまだまだ双六あそびをつづけます



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by someday3601 | 2012-12-18 19:52 | 爺論好論(じろんこうろん)